愛郷---上信高原民話集(二十九)

田代村ジャガタラ薯の由来


 「なぁ、おんじい、なぁ、おんばあ、そんつぎの話はどうしただぁ。」

 「あぁ、そんじゃぁつぎの話をしてやんべぇ。」

 昔、昔、三百年も前の宝永、正徳ちゅう年の頃になあ、信州の真田の殿様の年貢の取りたてが厳しくて、食えなくなった信州の松氷一族が峠を越えて田代原に逃げて来て、日当たりと良い水の湧く丘の辺りに芝切りをして住み着いたんだと。そのうち少しづつ人が集まりだして小さな村が出来たんだと。

 始めの頃は、大笹村の新開地で轟新田と呼ばれていたんだと。百姓は米が穫りたくて田んぼ作ったんだけど、水がつめてえもんで、青立ちで米粒がへえらなかったんだと。

 野地だった田代湖の所にも作って見たが駄目だったんだと。

 あきらめて、今度は、麦を畑に蒔いたんだと。ところが泥が凍っちまって、春になると根腐れでまた駄目になっちまったんだと。

 おしめいに、粟と稗とそばだけしか実が出来ねえことがわかって、しかたかねえでそれを作って、銭を稼ぐ為に炭焼きをしたり、木挽きしたり、馬方して暮らしていたんだと。

 陽気の悪い年があると畑作物は実らなくて、飢えに苦しんだんだど。天和、天明、天保、明治二年と大きな飢饉があり、生きるも地獄死ぬも地獄の時代だったんだと。

 だれもかれも食わなきゃぁ死んじまうから銭はたいて、大笹村の六斉市で穀物を買ったんだが、商人はこんな時は儲け時とばかりに値を上げて、粟一升を六百文にして売ったんだと。

 ちっとぐれえの銭しかねえ百姓はとっても買えなくて、山へ入ぇって栗の実、ドングリの実、栃の実なんでも食える物をさがしたんだと。陽気が悪いからそんな実もろくになってねえ。わらびにぜんめえの根っこまでも掘って叩いて粉にして食ったんだと。

粉作って、どうしても食えねえかすを糠って言って、その糠を捨てた所が糠塚なんだと。 飢えて苦しいのは、田代村だけじゃぁなくてどこもみんな飢えていて、干俣村なんかは村の三分の二も死んじまったんだと。

 陽気が悪いと病気がはやったり、それでうんと死ぬ人が出たんだと。

 天明三年の浅間押しの飢饉の年に、越後の国から笹板割りの職人がジャガタラ薯を土産に持って来たんだと。この薯を作って見たら、陽気が悪くても薯が取れたんだと。

 これが田代村の薯作りの始まりなんだと。それから田代村の衆はみんなジャガタラ薯を作るようになったんだと。

 天保七年の飢饉には田代村はこの薯のおかげで命が助かったんだと。ジャガタラ薯は春になると芽を出して腐ってしまうんで、しまってはおけなかったんだと。

 天保十年の松本源吉ちゅう人が薯の団子が出来ねえかと思って、薯をつぶして丸めて焼いたりゆでたりしたがうまくいかなかったんだと。いろいろ考えて、薯をおろして桶に沈めて、沈んだ下の良い所を水でさらして天火で干すと薯の粉が出来る事を発明したんだと。 でもこの仕事は冬の寒ざらしでねえと腐るんで、それで田代村の衆は冬が来ると村中で薯の寒ざらしをして粉を作ったんだと。

 粉にお湯を入れてかきまぜた、いも熱湯やそば粉と混ぜて焼いたせんべえが近郷近在で評判になり、買いにくる商人や他の村の人が増えて来たんだと。そこでこの粉を片栗の根っ子と色も味も似ているから片栗粉と名付けて、上田や小諸で売り出したんだと。

 繁盛して天保十九年には二十六俵も売れたんだと。二百匁を袋にして銀四匁ちゅうから今なら二千五百円くれえになったんだと。

 田代村の衆は片栗粉を売って米や魚や着物を着物を買ったんだと。

 天保の飢饉、明治の飢饉の時もこの薯のおかげで生き延びられたんだと。

 シャガタラ薯は田代村にとって本当の命の糧として今も作られ、片栗粉も昔ながらのやり方で作り継がれているんだと。

 「いも熱湯なんざぁ食ったことがなかんべぇ。黒砂糖を入れて明日でも作ってやるべぇから今日ははぁ、寝ろやぁ。」


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